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著書紹介

 トップページ>著書紹介『精神科医になる 患者を〈わかる〉ということ』
 

熊木徹夫の著作出版物のご紹介

熊木徹夫著『精神科医になる〜患者を〈わかる〉ということ』(中公新書)

『精神科医になる』表紙
『精神科医になる〜患者を(わかる)ということ』のご購入はこちらから。

当サイト監修者、熊木徹夫著の『精神科医になる〜患者を(わかる)ということ』について、こちらのページでは、本書の各章を抜粋したものを見ていただき、ご購入の参考にしていただければ幸いです。
そして、あなたのご意見・ご感想を自由にBBSに書き込んでください。

『精神科医になる〜患者を(わかる)ということ〜』の書評

*以下のインタビューは「小学館『サピオ』2004年6月23日号の「書想倶楽部」(P.44)より抜粋」

「現代人は心にこだわりすぎるが、真の意味での体に対するこだわりは希薄だ」と、『精神科医になる』の著者、熊木徹夫氏。
高校時代からめざしてきた精神科医師になって10年目の青年医師だ。
精神科医は、本当に病気を証明できるのか、甘えと病気の差異は等々、医療現場でぶつかる諸問題や医師としての悩みを真摯に綴ったものが本書である。
「精神科医独特の体の診かたを突き詰めたい」と言う、熊木氏を訪ねた。
――精神科医でありながら体に強い関心がある、と。
熊木―私も医師になる前は、一般の精神科医と同じように、心の問題だけに関心があったのです。
ところが患者さんを実際精神科的に診察していくと、逆にいろいろな体の問題に遭遇するようになった。
内科などの身体科医から「痛いとか苦しいとか言っているので、検査をしたけれども体に異常がなかった。
ということは、心の問題ではなかろうか」と言われるものの、精神科の病気があるようにはどうしても見えない。
この場合、本当に精神科医が診るべきか半ば訝りながらも、対応を余儀なくされます。
ところが、そういう人たちに例えば漢方薬など処方したり、あるいは家族の問題を解決に導いたりするとよくなることもある。
そこで、精神科医独特の体の診(み)かたというものもあるのではないか、と気づいたのです。
――精神科医は、欧米のように身近な存在ではないが。
熊木―個々人の実存が常に問題とされる欧米では、「悩みを持つ」ということはそれだけ高級な人間である証しとされます。
すなわちカウセリングを受けることがステイタスだとされる。それは恐らく、キリスト教教会で聖書に手を当てて懺悔をするといった慣習の名残りではないかと思われます。
とはいえ精神科全般に対する偏見は、日本以上に強固なところがある。
我を忘れてクレイジーになることについては、西欧文明は一般に寛容ではありません。
――近頃外部から入ってくる刺激が強烈です。
熊木―確かにテレビなどを通して、次々に衝撃的な映像が入ってきます。
例えば9・11の同時多発テロで、ビルに飛行機がぶっかるシーンを見た患者さんの症状が、軒並み悪くなっることがあった。
あまりにもリアルな映像の侵入を受けて、自我の殻がきちっと守られてない人たちが、混乱してしまったのです。
――残虐な犯罪も増えているのでは?
熊木―最近そういうことがよく言われますが、調べてみると少年犯罪も特に増えているわけではない。
数量だけでなく、個々の犯罪も昔に比べてとりわけ悪質になったという訳ではない。
それにもかかわらず、まさに今だけ不可解なことが起こってるように感じるのは、情報の受け手である大衆の恐怖感が投影されているからだ、と思います。
現代のほとんどの日本人は、戦争の経験がありません。
いままでもそしてこれからも平穏な社会が続くという予定調和を期待していて、死や犯罪という理不尽な事態に巻き込まれることを全く想定できないでいます。
傷つきやすく、また傷つけられるのではという恐怖もすごく強い。
それが必ずしも悪いことではありませんが、日本人は総じてひ弱になっていると思います。
また現代に特有の問題も、若干あります。
メディアに注目されようと極めて過激な行動をとる、一部の演技性人格・虚偽性人格の存在が目だってきていることです。
ただあまりしかめつらしく論評するのは考えものです。
こういった人々は「騒ぎたてれば騒ぎたてるほどよく踊る」からです。
――このような状況で心を守る方法は。
熊木―それについての処方箋があるかというと、これが非常に難しいのです。
そもそも、心、心といいすぎるのは問題が多いのではないでしょうか。
トラウマ・PTSD(心的外傷ストレス障害)などいささか乱用されすぎていると思います。
これでは本当にトラウマが問題になる人まで、軽んじられることになりかねません。
新刊書の副題は「患者を<わかる>ということ」であって、「患者の心を<わかる>ということ」ではありません。
このこだわりにも、読者に対してのメッセージを込めています。
――薬物の乱用も問題だ、と。
熊木―心・心という一方で、肝心な自分の体には随分無頓着なようです。
そもそも人間には、薬物のような生態に大きな変化を引き起こすものに対する恐れ、そして体という自ら統御しがたい自然の奥深さに対する畏れが備わっていたはずです。
自由な服薬をした結果、かえって体が不自由になるというパラドックスからどのように抜け出すか、これが今後の重大な課題だと思います。

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※以下の書評は
「週刊朝日 2004年6月25日号(102ページ)より抜粋」

――患者とともに悩み、考える――
これは私のけっして多くはない取材経験からいうのだが、精神科医ほど、良い医者とダメな医者の差が激しいものはない。
良い医者にかかればたちまち症状は改善する(少なくとも悪化は避けられる)が、ダメな医者にあたると、何年たっても治らないし、どんどん悪くなる。
しかも、外科や内科なら世間の評判というモノサシがあるけれども、精神科の場合は信頼すべき評判というのがなかなかない。
精神科医選びは難しい。
だが、精神科医選びの難しさは、精神疾患、精神医学の難しさ(あるいは曖昧さ)と関係があるのかもしれない。
熊木徹夫の「精神科医になる〜患者を(わかる)ということ」は、1969年生まれのまだ若い精神科医が、医療の現場でどのような疑問にぶつかって、どう考え、どう行動したかを述べている。
著者の文章の誠実さに感心した。
ほら、医者って、病気のことはなんだって知ってるぜ、という態度の人が多いでしょう? 熊木はそれとは逆だ。
患者とともに悩み、考えるという姿勢に共感する。
精神疾患は輪郭がはっきりしない。生化学的に異常を確認できるものもあれば、そうではないものもある。だから、薬が効くこともあれば、効かないこともある。
その意味では、精神疾患とは、脳や神経など器官だけの病気というよりも、その人の存在の病気でもある。いささか哲学めいたいい方になるけれども。
病気であるかないか、そんな線引きをすることにどういう意味があるのだろう。
生化学的な数値はどうあれ、当人が苦しんでいればそれは病気だし、医者にはその人を助ける義務がある。
ただし、患者から病気だけを抽出して治療するようなことはできない。
それが患者の存在全体に関わっているのだから、医者も患者と全体と付き合わなければならない。
そうなると「精神科医になる」というのは大変だ。
永江 朗

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※以下の書評は
「『諸君!』2004年8月号(文芸春秋社)P.244〜P.248より抜粋」

---今月の新書 完全読破 (2004年5月のベター)----
本宮ひろ志 『男一匹ガキ大将』が示す、
戦後ナショナリズムの頂点とは----
「役立つ日本思想史」を目指した力作は、
意表を衝く同著者・二冊同時刊行。
医療、生命倫理の分野にも収穫が多かった。
宮崎哲弥(評論家)

[2004年5月のベスト]
浅羽通明『ナショナリズム』『アナーキズム』(ちくま新書)

[2004年5月のベター]
精神科医になる〜患者を(わかる)ということ
熊木徹夫[著]
中公新書 本体700円(税別)
脳死・臓器移植の本当の話
小松美彦[著]
PHP新書 本体950円(税別)
覚悟としての死生学
難波紘ニ[著]
文春新書 本体700円(税別)
政治献金----実態と論理
古賀純一郎[著]
岩波新書 本体700円(税別)

熊木徹夫著『精神科医になる〜患者を(わかる)ということ』
についての解説

(前略)
精神科臨床の技術は秘教的(エソテリック)である。精神科医の「腕」を決定するのは、臨床経験だという。しかし、場数を踏むことの重要性ならば、他の医師の場合も事情は変わらない。
ところが精神科医の場合は、臨床経験の豊富さに加え、その「深さ」を客観的に表現することは困難だという。
これでは秘教的と看做されても仕方あるまい。おそらくDSM(精神障害の診断統計マニュアル)のような判断基準は、「外から見えない」という批判にある程度答えるためにも作成されたのであろう。
しかし、DSMなどを読み込んでみても、精神科医が診断、治療のプロセスで何をやっているのかは到底窺知できない。
そういう意味で本書は画期的著作である。臨床の現場で、精神科医が何に注目し、何を判断し、どのように治療戦略を組み立て、以下に予後を見守るかが、具に描かれている。臨床経験の「深み」もある程度窺知できるよう叙述されている。
「精神医学は自然科学たり得るか」「患者の『心的現実』は事実か」といった、科学哲学上、認識論上の難問から「疾患か、甘えかをどうやって見極めるのか」というやや下世話な関心まで、真摯に応答しようとする著者の姿勢には打たれる。
けれど、本書を読了してもなお、精神医学という営為への存疑は解けなかったという遺憾は付言しておかねばなるまい。(後略)

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※以下の書評は
「『精神療法』第30巻第6号 P.112より抜粋」

精神科医になる
患者を<わかる>ということ
熊木徹夫著
中央公論新書 新書版206頁 700円 2004年5月刊
(こころのクリニック 自由が丘診療所) 崔 震圭

本書は、「精神科医になる」ためのマニュアル本ではない。著者は精神科医として10年余り心を病む人に真摯に向かいあってきたその体験過程と試行錯誤のプロセスを、「臨床感覚」と著者が呼んでいる感性の体得(気付き)の過程という観点から丹念に解き明かしている。医療全体がいっそうマニュアル化し、デジタル化していく流れの中で「生体との会話」「治療の根拠としての物語」「ありのまま性と非ありのまま性」などといった一見曖昧でアナログ的な言葉を多く駆使する中で、患者をわかろうとするための感覚を磨くすべがそこにはあると著者は強調している。
著者は精神科医としてかけ出しの頃、薬物療法と出会って「薬物は症状にではなく構造に効く」という言葉に衝撃を受ける。昨今あたかも医療の大前提であるかのようになっているEBMの重要性を感じつつも薬物とは生体としての患者という存在との会話そのものであると考える。著者なりにEBMとの接点を見つけるべく日常臨床の中で薬について主観的に感じているものを「薬物の官能的評価」と名づけ、いわば臨床家の「呟き」の中にこそ本質があるのではないかと考えるに至り、現在ホームページ上でそれらのデータベース作りに取りかかっているのは大変に興味深い。
「官能的評価」とはつまるところ臨床的な勘を磨くことにつながるのではないか。多元的な関わりこそ患者をわかることにつながると著者は語る。「生体との会話」を積み重ねながら身体感覚を通して治療者の内に芽生える「物語」こそ治療実現の根拠となるというのは、まさに臨床感覚そのものから出たものといえよう。精神科治療者の専門性のおおもとは「物語」作成のすべにあると著者はいう。精神医療における専門性とは何かを提起しており、著者がいう社会防御的役割と患者への治療的役割、医学的パターナリズムと反パターナリズム、疾患と<甘え>といった中での精神科治療者に課せられた重層的葛藤を自覚し引き受けるべきだとの主張は、深く考えさせられるものである。「物語」から離れた臨床は単なる情報の集積でしかないと思えるのである。
また精神科医療の敷居が低くなるにつれて治療対象はどこまでなのかを第4章「精神科医は何を診るか」では考察している。精神症状の所在を確信できるものを「ポジティブ精神疾患」、身体科医が途方にくれて積極的に精神疾患とはいい難いものを「ネガティブ精神疾患」と呼んでいる。これらを架け橋する新しい「心気」概念の提唱は新たな臨床的な地平を期待させるものの、今後その「心気」についての「官能的評価」を集め深めていく必要がありそうである。加えて人格障害への対応は、治療というよりも何でもありの「ゲリラ戦」の様相を呈するものである、とその気概と覚悟が問われると、臨床に前向きであれはあるほど悩みは深いものである。
最後の補章「症例検討会を検討する」では、治療の場はたえず相対化される必要性があり、また円環構造であるべきであると治療者としての独善性への戒めと気づきについて語り、あとがきにもあるように自分の治療をたえず相対化しようとする試みは、著者の誠実で真摯な臨床姿勢の表れであろう。なにより著者は臨床が好きであるばかりでなく、底流に治療的オプティミズムがあることがとてもすばらしい。

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『精神科医になる〜患者を(わかる)ということ〜』(中公新書)のサンプル

「精神科医になる〜患者を(わかる)ということ」の各章冒頭をサンプルとして紹介します。
ご購入の参考にしてみて下さい。

第1章 薬物は何に効くのか 〜臨床における患者の<構造>

目をつむると、静かに思い出される夜がある。モダンジャズが流れるなか、ほろ酔い加減の精神科医たちが日頃の臨床経験について、それとなく語り合っていた。夜も深まりゆき頃、ある先輩医師がこう語った。
「薬物は症状にではなく、<構造>に効く」
酔いはいっぺんにさめた。その一言が際立つあまり、前後の文脈も私の記憶から吹き飛んでしまった。
そもそも薬物は、症状に対して効くものだというのが世間一般の常識である。精神科医を含め多くの医師もそう信じている。しかし私は何か違う気がしていた。うまく言い表せないけれども、薬物は何かもっと奥深いものに働きかけているに違いない。と感じていた。そのような時に一言、先の言葉を示された。うまいことを言うものだと感嘆しきりだった。
しかし、その言葉を投げかけた先輩医師自身からは、ついにその言葉の詳細については聞くことなく今日にいたっている。そこで本書では、先に話された<構造>とは何か、その意味を考えてみようと思う。(後略)

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第2章 患者をどのようにして<わかる>か

第1章で、ある一人の人間の存在の仕方を<構造>という名で表し、この<構造>を照らし出すのにさまざまな位相の「像」があると述べた。治療者が患者の<構造>のありようを知るためには、双方の身体感覚を通してしかわかりあえないような<生体との会話>とでもいうべきものが不可欠だと考えられるのである。<生体との会話>とは、言語表現という形を取る以前の、より未分化で普遍的な<わかり方>のプロセスである。
ところで、精神科の臨床においては<わかり方>というものが常に問題にされる。私自身が日常的に体験するものの中から、その一例を示してみたい。
以下は診察室でよく見かける風景である。
「どうなさいました」
「目のまわりがモゾモゾして気持ち悪いんです」
「どんなふうにですか」
「鼻の奥から膿のようなものが垂れてくるような感じなんです」
このような対話が行われるときに、私はいつも次のように感じる。この人の話している<モゾモゾした気持ちの悪さ>というものは、どういうものなんだろうか。<膿が垂れる>とはどんな感じなんだろうか。実際のところ、この人のつらさをわかってあげられるのだろうか。いや、完全にわかることは不可能だろう。どれほど想像を膨らまそうとも、この人に成り代われるわけではないのだから。
そもそも同じ感覚をわかってあげなくとも、治療的関わりは可能なはずである。だとしたら、どのように関わってゆけはよいだろうか。やはり私なりの<患者の身体に対するわかり方>の方法論が必要になるだろう。この患者の身体は治療という場において、特定の他者に開かれていなくてはならない・・・・・・。そんなことを考えながら患者の身体を触診している時、私の身体はいくぶんなりとも患者の身体に同調してゆく。
その感じに浸っているうちに、この身体は患者自身のものなのか、それとも、もしかすると私自身のものなのかもしれないという不分明さが生じてくる・・・・・・。
では<わかり方>とは厳密にはどういう事柄を指すのだろうか。また<生体との会話>とは、この<わかり方>とどう関係づけることができるのだろうか。本章では、臨床における<わかり方>の意味について考えてみたい。(後略)

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第3章 患者は<ありのまま>に話すか

ある内科外来での出来事である。別の病院で看護師をしている一人の女性が、その外来に二歳になる自分の息子を連れてきた。「この数ヶ月間、どんどん元気がなくなっていくので、とても心配」なのだという。一とおりの検査がされたが、なぜか貧血を示す所見がある以外に異常が見当たらない。
ひとまず、精密検査をするために入院となった。看護師としての業務が多忙であるにもかかわらず、この患児に対して自分の時間の許すかぎり献身的な介護を続けている母親は、病院内のスタッフで称賛の的だった。その中で精密検査が系統的に進められたが、やはり貧血以外の異常値はみられず、この貧血の理由は分からぬままだった。そんなある日の未明、一人の看護師が用事を思い出してふいに訪れた病室で、異様な光景を目にした。患児の母親がおびえている患児の口を押さえながら、その腕に注射針を突き立て一心不乱に血を抜いていたのである。その様子を見られた母親は、その看護師に今見たことを他言しないように懇願した。結局、患児と母は、「代理母ミュンヒハウゼン症候群」(ミュンヒハウゼン症候群とは虚偽性障害とほぼ同義。母が患児のかわりとなり、作為的に病状をつくりあげることをいう)として精神科に紹介されることとなった。
これは今、身体科医が頭を悩ませている虚偽性障害の一例である。実際にはさらに手の込んだものもある。このような「虚偽」が精神科でいきなり繰りひろげられると、事態はさらにややこしくなる。
精神科では、診断の裏付けとしての検査をあまり行わない。というのも、精神科医が検査を好まないのではなく、検査をしたところで鑑別診断の役に立たないことがあまりにも多いからである。そこでおのずと、患者の主観的体験とそれにもとづく訴えが身体科以上に重視されることとなる。そしてそれは厄介なことに検証不能なことが多く、治療者はしばしばそれをそのまま鵜呑みにするしか仕方がない。
もちろん長期的に患者と対峙していれば、かなりの「虚偽」は見抜くことができる。しかし、精神医学の本を読むなり身近な精神科受診者の振る舞いをまねるなどして、周到に病状をつくりあげるような患者にあっては、時としてその「虚偽」を見抜くのがかなり困難なことがある。
とはいえ精神科の診療場面では、患者が治療者に対して自らの<ありのまま>を表現しているはずだと見なさなくては、治療が成立しない。精神鑑定と違って、一般の精神科医療では「虚偽」を見抜くのが最も重要なことだとは考えられていない。
そもそも、ありのままに症状や苦痛を表現すること自体本当に可能なのか、すなわち患者の<ありのまま性>は常に保証されるものかという問題がある。さらに自らの<ありのまま>とは実は現実のありのままではなく、自らの「心的現実」のありのままである。しかし、「心的現実」を治療者はどのように取り扱うのが望ましいのだろうか。まず本章では、<ありのまま性>について考察し、その上で現実と「心的現実」について探ってみることにする。(後略)

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第4章 精神科医は何を診るか

ある時私は、十七歳の男子高校生を診ることになった。六ヶ月間、不登校が続いている。元来はまじめすぎるぐらいの生徒で、勉強やクラブ活動に全く手を抜くことがなかった。ところがある朝、学校へ向かう途中の電車で便意をもよおし、途中下車した駅のトイレに飛び込んだ。この一件を機に、無断遅刻と欠席が始まった。当初は彼自身このことを恥じ、申し訳なさそうに弁明を繰りひろげたが、次第に学校へ行く姿勢も見せなくなり、昼過ぎまで寝て、起きてもテレビを見て無為に過すようになった。学級担任が迎えにきても、顔を見せようとしない。両親から嫌なことを申し付けられると、吐き気がする、と言ってトイレに籠もった。困り果てた家族は、本人を連れて精神科におもむいた。私に対して、これまでの窮状を切々と訴える母親は、最後に次のような言葉を投げかけた。
「先生、この子は病気なんでしょうか。それとも<甘え>なんでしょうか」
実は精神科医はこのような質問をよく受ける。そしてそのたびに、少なからずとまどいを感じるのである。答えるのはそれほど簡単ではない。それはなぜか。
先に、精神科医は何を診るかということについて論じた中で、精神科医療において治療対象となる患者群とはどういった人々なのかについて考察した。その結果、いうことができるのは次の二点である。1.身体科医と精神科医の間で疾患の捉え方に乖離が見られるということ、2.精神科医自らがある患者に精神疾患がないと言い切ることは難しく、結局のところ、身体科医のほうが精神疾患の領域規定を行わざるをえないことである。すなわち<ネガティヴ精神疾患>の“成立”はある種の必然だといえる。
ただ先に挙げた精神科医のとまどいは、もう少し複雑なものである。このとまどいを導きの糸として、精神科医が抱える葛藤について考えてみたい。(後略)

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第5章 「まず診断ありき」は当たり前か 〜<普遍的治療>のあり方

もしあなたがアメリカへ行く機会があるなら、ドラッグストアをのぞいてみるとよい。日本の薬局ではお目にかかれない、実に多様な薬物が置かれていることに驚くだろう。
日本でも近ごろ販売が開始され、話題になった薬物に、発毛剤リアップ(アメリカではロゲインと命名されている。また本章では、薬物を商品名で示す。ここでは<とおり名>のほうが理解してもらいやすいと考えたからだ)がある。この薬物は、従来の日本の薬事行政の慣例にのっとらない、例外的な措置を受けた初めての薬物なのである。普通はまず健康保険の使える薬物、すなわち医師のみが処方できる薬物として認可される。しばらくしてから(その安全性が確認されたとして)、薬局薬店で医師の手を介さずに販売できるようになるのだが、リアップはそのプロセスを飛び越え、いきなり薬局薬店でだけ販売できるようにしてしまった。これはおそらく、リアップを求めて人々が病院に殺到することにより、健康保険がパンクするに違いないと、厚生労働省が危惧してのことだろう。
ところで、リアップのような薬物を指して「ライフデザインドラッグ」と呼んでいる。「ライフデザインドラッグ」とは何か。「よりよく生きる」ことをテーマに用いられる薬物とでもいえばいいだろうか。社会生活を営むにあたって、ある心身の不調を自覚させられ劣等感にさいなまれることにより、これらの薬物を強迫的に使用するようになる。他の例としては、勃起不全治療薬バイアグラ、抗うつ薬プロザックなどがある。ついでに言うなら、何もアメリカに行かなくても、最近はインターネットでありとあらゆる薬物を簡単に入手できる。
こういった「ライフデザインドラッグ」のように薬局などで一般人が買い求め、誰に管理されることもなく随意に服用したり、またあるいは、治療者が処方した薬物を、患者がその本来の治療目的から離れて使用するようになることで、困ったことが起きるようになってきた。それは<嗜薬>という現象である。<嗜薬>というのは私の造語だが、治療者という直接患者の心身を知る専門家からの服用(使用)のすすめとは関係なく、患者(あるいは一般人)が自ら進んで服用し、やがては耽るようになることである。<嗜薬>は「ライフデザインドラッグ」以外では、薬物それ自体に身体的・精神的依存性がある----服用すると快楽が伴う/薬物耐性が生じてくる/禁断症状がある----もので起きやすい。これは、医療への関わりが比較的自由になった現代にあっては。不可避なことなのであろうか。(後略)

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補章 症例検討会を検討する

症例検討会というものをご存知だろうか。医療界では、どの科においても非常に重要視されている臨床教育の一法である。症例とはすなわち患者のことである。身体科では、患者という個そのものよりも、患者が罹患している病気のみがクローズアップされ、その病気の一般的な診断・治療に焦点を絞って話し合われることが多い。
それに対して、精神科の症例検討会(以下、検討会と略)はきわめてユニークである。患者という個をいろいろな角度からあぶり出そうと、さまざまな情報が提供される。主訴(とりわけ患者の主観や患者自身の語った言葉が重視される)・家族歴(各々の構成家族の病歴・職業・性格など)・生育歴(誕生以来の生活環境)・既往歴(これまで罹患した病気。身体疾患も含む)・現病歴(治療者の前に現れるまでの経緯)・病前性格(本人が自らを評したものか、家族が評したものかによって異なる場合がある)などに始まり、患者と治療者との関わりが克明に記されたレポートが、まず治療者によって用意される。すなわち、こういった情報のすべてが重要なものであるかもしれない、というわけである。このレポートは、患者と治療者との関わりを治療者が摘出するという性格のものであるから、当然のことながら、この中には治療者の主観も交えられている。
ここでの治療者は大抵の場合、若手の臨床家であり、検討会の場ではスーパーバイジー(被指示者)と呼ばれる。彼にアドバイスを送るのはスーパーバイザー(指示者)と呼ばれる人物であり、検討会の場において最も老練な臨床家がその任を担うのが通例である。その二人を取り巻く聴衆がいて、時折意見を述べることもある。これが検討会の基本形である。吟味する事柄が多方面に及ぶため、身体科の症例検討会に比べ、精神科のそれは長時間にわたることが多く、一例につき三時間にも及ぶものも少なくない。
ところで、こういった検討会はいつから始まったのだろうか。私が臨床に携わりはじめた頃、検討会は周囲にいくつもあった。その各々が派閥のようなものを形成していて、まるでギルドのように当時の私には感じられた。
やがて私自身が、いくつかの検討会に症例提示を行うようになった。そうしているうちに、各々の検討会が何かあやふやな基盤に拠って立っているのではないかと感じるようになった。つまり検討会の存立根拠について、何らかの問題提起がなされる必要性を強く感じた。
ところが現在、日本のいたるところで検討会が行われているにもかかわらず、真正面から検討会の構造と意味を取り扱った論考はほとんどない。本章はその一つの試みである。
なお検討会の構造と精神科治療の構造は、さまざまな点でアナロジカル(類比的)である。そのため本章は、検討会のみならず治療構造そのものにも言及するもの、すなわち精神科治療構造論である。(後略)

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あとがき 〜私のそばにいつもいる<誰か>

かつてこのようなことがあった。患者は四十三歳の男性である。
精神科初診時の訴えは、長期にわたる動悸、頭痛、めまいである。強い焦燥感が前景化していた。十年来続けてきた仕事に全く自信が持てないという。このような症状が持続しているので、その治療のためあちらこちらの病院を転々としているが、どこでも「異常なし」といって取り合ってもらえない。精神科に紹介されてきた時には、「もうダメです」と打ち萎れていた。
いざ治療を始めてみる。ところが、いかなる薬物を試そうとも不満が絶えない。ある症状の執拗な訴えに対し、できるだけ親身になってその症状の改善に努めても、また別の症状が出現する、といった具合である。これが何ヶ月も続く。まるでいたちごっこであった。
ある日の面接で、この患者は泣き崩れ、「なんとかしてください」と訴えかけてきた。この状況にたまりかね、「私は本当に疲れてしまった。でも、あなたの訴えを聞いているだけの私でさえ疲れるのだから、あなたはもっと疲れているのだろう」と話すと、患者の涙が止まらなくなった。ひとしきり泣いておさまったタイミングを見計らい、「あなたの身体をあなたが絵にして、毎回持っていらっしゃい。それを治療に役立てたい」と伝えて面接を終了した。
その後、何回か面接に患者が絵を持参するうちに、患者は「なぜこんな同じような絵ばかり描けてしまうのでしょう。自分の身体のことは描かずともよくわかっている。もう疲れるのでやめていいですか」というので、私は「あなたがそういうのなら、仕方がないでしょう」と応じた。以降、訴えは急激に消退した。数ヵ月後、患者は「以前の自分の身体にこだわり続けた私が馬鹿みたい」述懐した。
この治療経過については、いろいろな解釈が施せそうだが、ここでは一点だけを問題にしたい。治療者と患者という二者関係は、その治療経過がはかばかしくなく迷走状態に陥ると、煮詰まって双方とも身動きが取れなくなってしまう。このような膠着をほどくのはいつも、シリアスな二人を斜め上から眺めている<誰か>である。この<誰か>は、いささかの諧謔を弄しながら、治療の場を相対化する手助けをしてくれる。力尽きそうな私の後ろを押してくれる。後で振り返って、治療がうまく運んだと思えるケースでは、たいていこの<誰か>が舞台の隅をかすめる程度に、しかし絶妙なタイミングで登場してきているのがわかる。
本書は、私のそばにいつもいるこの<誰か>が、その位置から見える臨床のあれこれについて語る言葉に、私が耳を傾けながら書き上げたもののような気がしている。臨床の場にあっていつもその当事者である私は、必ず本書に記したような事柄をあらかじめ念頭において治療を行っているわけではない。しかし、<誰か>のささやきは突然やってくる。だから、そのささやきの到来に備えておく必要はつねに感じてきた。そして、このささやきを全身で受け止めようとしてきたけれど、果たしてどれだけ感受できたかは心許ない。さらにその成果の一部が本書だとするならば、本書の提起する問題は、ほんのささいなものにすぎないのかもしれない。本書の内容をたたき台として、発展継承していただける読者がいるなら、あるいはここからまったく独自の「気づき」に導かれてゆく読者がいるなら、これに勝る喜びはない。
第1章の章末でも紹介したが、インターネット上に本書に関するサイトを用意した。本書の各章節について、読者の方が感じたことを書き込むことができるよう掲示板を設けている。さらに「精神科薬物の官能的評価」のコーナーでも、それぞれの薬物について自由に書き込むことができるようになっている。ゆくゆくはデータベースとして、そこに書き込まれた情報を多くの方に活用していただくことができれば、と考えている。断片的な意見でも構わないので、奮ってご参加いただきたく願う次第である。
さらに本書を読んで、<本当の>精神科医になってみたいと考えるようになった方がいらっしゃれば、大歓迎である。語弊があるかもしれないが、精神科はおもしろい。志を同じくする方が臨床に参加してくださること、これが本書のもうひとつの狙いでもある。(後略)

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